プロフィール

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矢野  大洋 (やの  たいよう)

  • メンタルトレーナー
  • 弓道家(5段、全日本弓道連盟)
  • ゴルフ(シングル、最高スコア競技で71)
  • セミナー講師
  • 心のマネージャー
  • さすらいの旅人
  • 骨髄提供者(適合3回、提供1回)

矢野流メンタルトレーニングとは?

『自分の心と体を意識して動かせるように、

外部からの干渉を取り除くことを目的とし、

日々、意識して行動するトレーニングを言う。』

 

1964年8月 矢野家長男として、今治市の大島に生まれる。

 

私が小学生の入学を機に、父が矢野石材(有)を開業。

 

(田中角栄内閣の国内改造で、高度成長期になり、一気に日本経済が上昇気流になり、

父の商売も軌道に乗り出す。)

 

【小学生・中学生】

小学生時代、野球が大好きでほぼ毎日、ずっと近くの小学校の校庭で草野球をやっていた。

しかし、背が小さく線の細い私は、そもそも体格差があるので野球で活躍することはできなかったが、そのおかげで、気持ちだけでは負けたくないと「負けん気」が強くなった。

また中学校では、姉の友人に野球部員が多く、何度も大好きな野球の入部を誘われたが、ここでも自分の体の小ささに自信が持てず、野球部に入らなかった。その後、バレー部からも入部を誘われるが、ここでも自分の身長がネックとなり諦めた。挑戦できない歯がゆさはあったが、メンタル面が弱く体の小さい自分にはスポーツでは、何もできないと思っていた。

でも、そんな私にもやり遂げたことがあった。それは小・中ともに無欠席の皆勤賞。小さいことでもコツコツとやり続けることの大切さは誰にも負けなかった。

 

【高校生】

高校入学後、ここでも野球部に誘われたが、やはり断念。相変わらず自分の体格には自信が持てなかった。ただ、小・中学生との大きな変化は、「勝ちたい」という気持ちが表面化したことであった。

体の小さい自分でも活躍したいと思い、当時、私の通う高校で一番強かった弓道部に入部した。

「強い環境に入れば、絶対に自分も強くなれる」

やりたいことがあっても挑戦できない自分、弱い自分とおさらばすると決意した。練習は、正月とお盆の2日を除く363日。とにかく練習に行くことだけに集中。(休みの日でも、雨の日でも、とにかく部活に参加。)

一年生の時、地方大会の新人戦でいきなり優勝。(入部して3ヶ月くらいしてから弓を引きはじめたのだが、いきなり的に当てることができたのでそれから弓道が楽しくなった。楽しくなればおのずと練習にも気合が入り地区の新人戦でいきなり優勝!弓道が簡単に思えた。とはいえ練習もするのではあるが、勝つことだけに集中しすぎて次の勝利になかなかたどり着けない。2年生の時にはスランプに落ち、同級生にも全く勝てず、弓道が面白くなくなった。しかし、団体戦のメンバーでもある私は考え方を変え、チームの役割の一つになろうと切り替えることで、徐々にやりがいを持てるようになっていった。

高校の弓道の成績は、県の総体出場止まり。愛媛県の大会レベルでは、歯が立たなかった。

メンタル面が弱く、自分に迷ってしまったときは、何をどうしてよいかわからなくなってしまい、無意味に過ごしたこともあったが、そんな自分でも、一緒に入部した5人の仲間がいたからこそ、3年間続けられたと思っている。目標を達成するためには仲間づくり、つまり協力者のネットワークづくりが大切であることが身に染みて感じた弓道生活であった。

 

【大学生】

父の採石業を継ぐため、経営学を学ぶために名古屋商科大学に入学。

高校で燃え尽きた弓道は、全くやる気がなかった。しかし、たまたま暮らしていた寮が弓道部の練習場に近かったこともあり、第二の弓道人生がスタート。

やるならば、高校時代で負けた記憶を消したい。同じ失敗をしたくないと思い入部した。しかし、弓道部の体質は古く、顧問の指導が絶対の時代。顧問の考えと自分のやり方が合わず、その葛藤からパフォーマンスが低下してしまった。

このままでは先がないと考え1年生の私は、当時3年生の先輩に相談し、師範と話し合うことを決意。お互いが納得できるまで意見を言い合った。その結果、当時1年生でレギュラーだった秋のリーグ戦で活躍し、3部から2部への昇格に貢献した。その時、師範との話し合いを通じて、古い体制から変えていく勇気と、相手の意見を受け容れることの大切さを学んだ。

3年生で主将になり、部を率いることが、いかに責任の重たいことかを体験できた。コミュニケーション能力の大切さやどう人を育てていくことが大切なのかを学んだ。大学生活は人生の縮図。こうした大学生活は、私の器を大きくしてくれた。

 

【社会人】

22歳で実家に帰り、1年間は見習いとして採石場の現場で過ごした。

ここは本当に過酷な世界であった。いつ死んでもおかしくないとまで思った。

毎日何かしらのケガ(擦り傷は当たり前、石で指をはさむ、骨折ならまだ良い方で指を切断した人もいた)をした人を何人も見てきた。

この過酷な労働の中で、自分の命は自分で守らなければならず、自分の身を守らなければ、周りにいる人達の安全も確保することすらできない事を多く学んだ。一つの操作ミスで大きな過ちが起きる。そんな危険との背中合わせのなか、一つ一つを丁寧に、集中し目的を持った行動をするようになった。

1年後の23歳。

私は会計事務所に入った。

当時、会社も順調に業績を伸ばし、大学でも経営学を勉強したので、会計の実践経験と違う世界を数字の世界でみたくなり、知り合いの人を通じて会計事務所を紹介してもらったのである。


経営者として、数字を理解する能力が必要だと感じたからだ。会計事務所の社長(以後先生)の運転手として勤務させていた
だき、ここで大事なことを教わった。「矢野くん。細かい数字ばかりに気を取られては、いけませんよ。」全くの逆の発想であった
が、先生が言いたかったことは、細かい数字にとらわれすぎると、全体が見えなくなり、重要な行動をとる時に慎重になりすぎ
て、行動できなくなると言うことだった、経営者たる者は時にはおおざっぱな部分も大切だというのだ。数字の把握も大切だ
が、「人付き合いを広める事も大切だから、いろいろな研修とかにも参加したら良いよ」というアドバイスをいただいた。私にとっ
て経営の基盤をつくる良い学びとなり、私にとって先生との出会いは、経営学の父といえる大切な人との出会いであった。

青年会議所との出会い。

先生の助言もあり、松山青年会議所という団体にも入会させていただいた。

この団体は40歳で定年(卒業)ということで活動年齢に制限があるため、自分と近い世代との交流やボランティア活動を行えるのである。(入会当時24歳)多くの経営者の方やボランティア団体の方々とお話しをしたり、私自身、子供たちと一緒に「わんぱく相撲」で昔の二子山部屋に泊まって、ちゃんこ鍋を食べたり一経営者として、海外に国際ボランティア活動としては、フィリピンにマングローブの植樹活動、先住民族、アエタ族にトイレを建設してあげるプロジェクトの参加など、多くのボランティアをされてる方や参加者の方との交流をすることによって自分が考えるボランティア活動と現場で実際に活動してる方のボランティア活動との差(現場では何が必要で、なにが不必要か)経験することによって少しずつだけれども客観的に見ることができるようになってきた。

この青年会議所活動の中にも研修がたくさんあり、今、自分が講師になろうとする原型のモデルにになった人がいる。その方は人間力セミナーを開催されている方で、私もその方によくアドバイスをいただきました。

小さな島の採石場だけの付き合いでは、全く気付くことのできない自分。新しい発見もあり、もっとこういう部分を鍛えればいいのかと、素直に学ぶ心ができた。と同時に、自分の小ささがわかった。

ボランティア活動の一環で、骨髄バンクにも登録した。

現状がわかると、もっとやるべきことが明確に見えるようになる。その結果、自分に足りないと思う項目について学ぼうとセミナーに通うことにした。様々なセミナーを通じて強く思ったことは、講師のプレゼンテーション能力が高いからといって、お客様に、その内容が伝わるとは限らないことだ。お客様は、しっかりと内容を理解し納得することではじめて、行動することができる。

もっとわかりやすく伝えるためには、相手にもわかる表現、聞く人に合わせた、伝え方が大事なのだと気づかされ、この経験が、私のセミナーの原点となった。

 

【現代】

日本の労働システムも大きく変わり、私の会社も危険、汚い、きつい(健康管理が難しい)という3Kのそろった労働環境によって、労働者(若者)が減少し、外国からの労働者を受け入れることになっていった。

それに加え、社会構造の変化に伴い、業界が大きく変わってしまった。

これを機に、私の考えも変わった。
そんな矢先、(アメリカ)オーランドにいた友人が「遊びに来ませんか?」と。ぶらりと旅にでたときに、一緒の宿泊施設にいたメンタルトレーナーと出会った。その人が私にとってのメンターになるわけだが、そこから私のやりたいことへの概要が決まってきた。採石業からは撤退し、墓石の販売業者としては、継続しつつも、

『今、自分がもっている知識・経験を活かしたい!』
セミナーをおこなうことで、これまで学んできたノウハウを伝えていきたい。 メンタルトレーナーとしての新しい自分を創造していきたい。